たにぐち放浪記R

ひとりの人間が,生活と人生についてつれづれと書き連ねる日記。

Rは,Revenge のRではありません。 Restart かもしれないし, Reconstruction かもしれないし, Reinstall かもしれません。そんな意味でのRです。プロバイダの事情により昔のデータが飛びました。昔のデータはGoogleY!InternetArchiveに訊いてみてください。ご不便をおかけし申し訳ありませんが,よろしくお願いいたします。

livedoorニュースでときどきコメントを書くこともあります http://news.livedoor.com/comment/user/p-6773179/ [RSS]。それと,PJでたまに書いています。

過去の日記

2009-10-08 (Thu)

_ [宗教][この社会と世界のこと][人生] プロフェッションとしての聖職者と宗教のありかたについて

プロフェッションというと,弁護士(法律家),医師,聖職者(宗教家)が一般的にあげられるわけです。このなかで,弁護士は社会生活における問題に対応するプロフェッションで,医師は肉体の問題に対応するプロフェッションです。そして,聖職者は,心の問題に対応するプロフェッションだと思います。いわば,弁護士は頭脳のプロフェッション,医師は身体のプロフェション,聖職者は心(感情)のプロフェッションといえると思います。

宗教(信仰)はほんらい,人間が生きている間において,身体(肉体)や頭(理性)だけでは解決できない,人間の心(感情・情操)の部分について対応するものだと考えられます。どんなに科学技術が発達しても,どんなに人間の頭が良くても,生きていく中ではそれでは解決できない苦しみや不安などがあるはずです。そんな人生において,心の平安や希望を得るためにあるのが宗教だと思うのです。

たとえば,仏教では,この世を生きていくのに苦しみが満ちていると考えます。それは事実だと思います。上座部仏教のような修行(苦行)を中心にする宗派は,自らの体や心を鍛えて解決しようとするわけです。他方,浄土信仰のような大乗仏教は,念仏や題目,座禅といった,違うアプローチで心の平安を得ようとするわけです。

キリスト教でいえば,懺悔や祈りも通ずるところがあると思います。

ところが,少なくとも現代の日本社会において,心の問題,情操の問題についてはおろそかにされがちでした。

たとえば,仏教の実情については,「葬式仏教」と揶揄されたりしているわけです。しかし,ほんらい宗教は生きるためにあるはずで,葬儀という儀式も,死という別れにおいて,故人との間でけじめをつけ,遺された人間が心穏やかに希望をもって生きるためのものだと思うのです。宗教は生きるためにあるのだと思います。

現代の日本社会を見ていると,日本人は,そういった宗教の本質を見過ごして宗教をおろそかにして,結局,自らを心に余裕のない苦しい状態に追い込んでいるように思います。日本人には,心に平安と希望を,余裕をもって,他者に接することがとりわけ重要だと思います。自分に余裕がないと,他者にも落ち着いて接することはできません。そうやってお互いにギスギスした状況をつくってしまうことで,ますます生きづらい社会にしているのではないか。そう思うのです。ささいな勝ち負けにこだわって,より充実した生を送るという最終的な目的を見失っているように思います。

人間の力では,科学技術では,どうにも解決できない問題というのが,今も昔もあるのです。現代においても人間は不死にはなれない。

宗教という言葉がでてくると抵抗がでるのかもしれません。本質は,一人の人間は全知全能ではないという,ごく当たり前のことをコテンパンに思い知って,自分に対しても他人に対しても,あらゆる環境に対してうまくつきあっていくことにあると思います。宗教という言葉を使う必要はなくて,自分より絶対的に強い存在を信仰すること,自我を縮小させることが本質だと思います。

宗教家というと,なんだか現世と隔離された環境で隠遁して修行をするような変なものを想像してしまうかもしれませんが,宗教家(聖職者)が本当にすべき仕事は,人々とふれあって,生きる活力を広めていくことだと思います。生きる活力が,すなわち,心の平安や希望ということであり,その活力を得るための手段が信仰でありその実践である。その方法も広めていく。

だから,一人でこもりっきりで修行をしているような「宗教家」はあやしいと私は思います。

社会がギスギスしているのは宗教家に問題があるのだという人もいます。必ずしも間違っていない。

でも私が重要だと思うのは,私たち一人一人に,よりよく生きていこうとする気があるのか?

医者にもやぶ医者がいるし,弁護士にもいわゆる三百代言みたいなのもいるわけです。人間たくさんいるのだから,なかにはいて当然です。宗教家のなかにもいるはずです。

しかし,どんな名医でも,患者自身に治る気がなければ手の施しようがないのではないか。どんな有能な弁護士でも,依頼人自身に問題を解決しよういう,協力する気がないのであれば,問題を解決することができないはずです。宗教家についてもおなじだと思います。

あたかも,プロフェッションが全知全能であるかのような,全部任せきりにすればよいというような考え方は,おかしい。

一人一人が,人間に対して,他人に対しても自分に対しても,じっくり見つめること。そして,人生を考えることが大切だと思います。そして人間が,人生が集まったものが,社会という存在です。そして,人間はその社会の中で生きています。個人と全体,一人と社会は,双方向につながっている。実は同じなのだということを肝に銘じて生きていくのがよいと思います。

なんか一見偉そうなことを書いていますが,率直に言って,私自身,いま生きていくのにつらさを感じているので,いまこうして書いています。

ついでに,冒頭に弁護士と医師と聖職者を分けて書きましたが,実際にはそれぞれの担当分野は横断していることが往々にしてあります。弁護士のところに来た依頼人が心の問題も抱えていること,医者に身体を治してもらいに来た患者が心の問題を抱えていること,聖職者のもとにやってきた人が社会生活や身体に問題を抱えていることなど,たくさんあります。いずれのプロフェッションも,自分の得意分野だけで問題を解決できないことがあるわけですね。現代では,医師が心の問題を「治そう」という発想がありますが,はたして医師の力だけで心を治すことはできるのでしょうか?? 私は,できないと思っています。

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