たにぐち放浪記R

ひとりの人間が,生活と人生についてつれづれと書き連ねる日記。

Rは,Revenge のRではありません。 Restart かもしれないし, Reconstruction かもしれないし, Reinstall かもしれません。そんな意味でのRです。プロバイダの事情により昔のデータが飛びました。昔のデータはGoogleY!InternetArchiveに訊いてみてください。ご不便をおかけし申し訳ありませんが,よろしくお願いいたします。

livedoorニュースでときどきコメントを書くこともあります http://news.livedoor.com/comment/user/p-6773179/ [RSS]。それと,PJでたまに書いています。

過去の日記

2009-09-13 (Sun)

大切な人に大事な手紙を書いて送りたいのだが未だに書いている途中…

_ [アニメ][宗教] 「かんなぎ」を観て

「かんなぎ」(全1クール)をいまさらながら見終えた。ヤマカンこと山本寛監督で,シリーズ構成:倉田英之,音楽:神前暁の作品。下野紘,戸松遥,花澤香菜って組み合わせはなんとも「バスカッシュ!」で,ダンとルージュとココを想起せずにはいられないまま見ていたけど。アイドルレッド(笑)。戸松遥は器用。そしてやはり,沢城みゆきがやたら上手い。

シリーズ全体でいうと,起承転結の承の部分で遊びすぎで,まあそれはそれで面白いのだが,転結でシリアスに引きずり込まれるパターン。「キディグレイド」とか「光と水のダフネ」とかと似たようなパターンだろうか。ヤマカンの奇才っぷりと,倉田先生のマニアっぷりにはすっかりまいる。

ヤマカンおなじみのダンスネタ(ハルヒダンスでおなじみ)のOPだけれども,ヤマカンは,ダンスネタをこれで封印したというよりもむしろ,これでダンスシリーズが完成したといったほうがよいかもしれない。

シリーズのプロット的には,起承転結の起の部分で自称神の謎の少女ナギが現れ,結の部分でナギのアイデンティティの問題(ナギ本人も自分が神であることを証明することができない)が出てくるという点で,起と結は対応しているのだが,しかし,主人公の御厨仁の変化の描写とか,ナギのライバルといってもよいざんげちゃんの扱いが中途半端に終わってしまっていて(たとえば,神であるざんげちゃんが生身の少女に憑依して乗っ取っていることについて肯定的にも否定的にも評価されず,かつ憑依されたまま終わっている),「終わった」という終わり方ではなくてなんだか,「現在進行形」のまま終わった感じ。まあ,最後の最後でヒロインのナギのアイデンティティの問題が出てくるのもある意味「いまさら」って印象もないわけではない。1クールでなければ,あるいはシリーズ途中で遊びすぎなければ…という思いもある。

産土神とか神樹とかなんだかんだといって紛らわしくなっているが,ナギやざんげちゃんのような神は,地域共同体に降りかかる災厄や共同体に内包する問題に対して起こるネガティブな感情を受け流すために地域共同体の人々が設定した信仰対象である。ナギは地域の人々の神様であって,川向こうに新たに人の住む地域を開拓するに当たって分祀されたのがざんげちゃんであるわけだ。

たとえば,ナギも祓っている「けがれ」は,人間がもつ恐怖や不安,憎しみなどといったネガティブな感情に起因するものである。「けがれ」の対処法として人々は神様を必要としていた。

ざんげちゃんは,人々からざんげを受け付けることで,人々のネガティブな感情を処理し,それによって自らの存在理由(レゾンデートル)を証明することで存在し続けることができ,アイデンティティが確立されている。

しかし,ナギは,地域共同体の人々からあまり必要とされず(神社が廃止され神木が伐採された),けがれを自ら祓う行動に出たり,ナギ様ファンを集めようとしたりすることで,自らの存在理由を維持し,アイデンティティを確立しようとしていた。

つまり,人間はそこに存在していること自体が自らの存在理由であるが,神という存在は人々に信仰されることにより存在理由がある。ざんげちゃんは人々に必要とされていることでアイデンティティが確立している。それに比べてナギは,自己の存在理由がぜい弱であるがゆえに,アイデンティティクライシスを生じたわけである。

そして,最終話に至っても,ナギは,少なくとも御厨仁から必要とされているがゆえに,存在理由を未だ失っていないと思われるが,それでもナギの存在理由はかなりぜい弱だと思う。 そんなわけで,どうしてもちゃんと「終わった」という印象がない終わり方に感じられる。

ところで,最終話で,昔のナギに会ったことのある人物が亡くなり,幽霊(?)として出てくるが,そのときの「四十九日までゆっくりする」というセリフ。四十九日というのはすなわち満中陰で,死んでから四十九日までの間(中陰)は,死者はこの世とあの世の間にいると,日本の仏教において一般的に考えられている。「四十九日までゆっくりする」というのはつまりそういう意味なのだが,視聴者のどれくらいがこのセリフの意味を理解したかは分からない。七日ごとの法要は,七日ごとに死者があの世に行くまでの関門があるので,その関門を抜けられるように,遺族は法要を行うわけである。

厳密に言えば,中陰の概念が必要であるか否かは,宗派によって異なる。たとえば浄土真宗は,すべての死者は阿弥陀如来の慈悲によって極楽の国の住民になることが約束されているので,究極的には人間は死ぬとすぐに極楽の住民になれるわけであり,中陰の概念も七日ごとの法要も厳密にはその必要がない。

それでも七日ごとの法要がされているわけで,中陰の概念は,宗派の教えとあまり関係なく,習慣として維持されているところがある。どちらかというと中陰の機能は,人が死んだことについて,遺族が心を整理しけじめをつけることにあると思う。

それにしても,神道と仏教の両方が混在しているなんとも日本的な設定のアニメなことだ。神道では,死んだ人を神として祀ることもあるのだが(畏敬の念の表れであり,ときに祟られることを避けるために祀ることもある。靖国神社もその性質の神社)。

宗教には,教義に対する信仰と,組織への帰属という,2つの要素がある。信仰は,人間が全知全能ではなく弱さを内包しているがゆえに,自らの存在意義を裏付けて,どうしても生じてしまう不安や恐れなどのネガティブな感情を解決し,自らの生を実践するためにある。たとえば,人々は,祈願,すなわち神頼みということもやる。この行為は,希望を神様にかなえてもらおうとする形式を取ってはいるが,その実は,希望が叶うか否かというよりも,希望が叶わないかもしれないという不安・恐怖・苦悩が存在することをうまく受け流すためにある。

たとえば,雨乞いとか豊作祈願とかいった神頼みを人々は昔からやってきたわけだが,天候や災害というのは,人間がどうすることもできない事象の典型である。どうすることもできないけれども,何かをしないと不安や恐怖はついて回るわけで,できるならば何かをしたいがゆえに,人間の能力を超越した存在(信仰対象)を設定して,祈るのである。

またたとえば,日本の仏教信仰は,死への恐怖や,死んだらどうなるのか分からないことへの不安を解消する機能をもっている。

作中の「かんなぎ」は「神薙」という地名でも出てくるが,ナギの「なぎ」は,薙ぎ払って平らにする「薙ぎ」というよりもむしろ,「和ぎ」であり「凪ぎ」である。すなわち,平和にする,地を治めるといった意味合いの「なぎ」であると思われる。地域住民の平穏を求める願いによって祀られた神様なのだろう。そもそも大和言葉と漢字は別の言語だったわけだから,漢字は当て字だ。だから,なんとなく地名に「薙」を当ててしまったのが受け継がれたんだろうな。しかしそれにしてもナギ様は傍若無人・自由奔放だけどね(笑)。

EDの「産巣日の時」(むすびのとき)の歌詞にも「和ぎ」という言葉を出しているし。ちなみに「杜」と「森」は同じ「もり」でも,厳密には意味が違う。「杜」は人の住む土地・集落だ。「都の西北早稲田の杜に」(早稲田大学校歌)の「杜」と同じ。さらには,「もり」はもりでも,「守り」も「盛り」も「もり」だからなあ。「神守」も読みを同じくして漢字を変えてしまうと「上森」になってしまう。

私でもそんな考察をしたわけだが,おそらく倉田先生はすごい人だから,深く考察をしたうえでプロットを組み脚本を書いたんだろうなあと想像するなあ。13話で終わらずにもっと本気を出したら,さらにすごい作品になった可能性もあるだろうのになあ。「R.O.D」とか「かみちゅ!」とか書く人だから。とくに「R.O.D」シリーズは,個人的には名作だと思う。

ネット配信ではShowTimeで観られる。もちろん有料だけど。「かんなぎ」 「R.O.D」 「R.O.D -THE TV-」 「かみちゅ!」

_ [この社会と世界のこと][宗教] 信仰の本来のありかた

あの9・11から8年たったわけだが。

宗教には,教義に対する信仰と,組織への帰属という,2つの要素がある。信仰は,人間が全知全能ではなく弱さを内包しているがゆえに,自らの存在意義を裏付けて,どうしても生じてしまう不安や恐れなどのネガティブな感情を解決し,自らの生を実践するためにある。というわけで。

そういう意味では,自らの希望を実現するための,殺人や自爆行為を正当化するような一部の宗教的組織は,人間の生に背いているがゆえに,その存在が背理である。そういったテロ行為に対して,恨む感情のおもむくがままに報復しようとする人々も,本来の信仰を実践することができていない。

構造的暴力に対しては,非暴力的抵抗(ex. ガンジー)によってあらがうのが本来の信仰であろう。また,持てる者は,構造的暴力によって持たざる者がいることについて,なんとかその問題を解決しようと真摯に対処すべきであって,自らと異なる者に対して寛容になり受け入れることが,本来の信仰の実践だと思う。

つまり,いわゆるイスラム原理主義によるテロ行為も,「敬虔な」キリスト教徒ないしユダヤ教徒の「自衛」を大義名分とする報復行為も,信仰を全くもって実践することができていないと思う。

自分の苦しみをなんとか解消しようともがいたり,死の危険に対する恐怖に対処しようとしたり,恨みや憎しみをもつのも,人間であるがゆえであって,人間だからこそ当然にもつ感情・行動なのだけれども。そういった弱さをもつ人間の存在自体が愛しいと思う。ともかく,人間の弱さに対してどのような対処法を見つけ出して実践するかが重要なのであり,その一つの方法が信仰である。

その点では,信仰は,実践も重要な要素であり,また自分が行ってきた善行の努力を正当化し,今後も善行を続けていくという努力を正当化するのも重要な機能である。

そう考えれば,浄土真宗は理論的にはきわめて高度に突き詰められており,悪人正機というのも一面でとても有り難いけれども,究極的には実践すら必要がないということが同時に弱点でもある。かつて一向一揆があり,死ぬことが正当化されていたことがあったのも,浄土真宗に信仰として弱点があるゆえだと思う。

専修念仏というほとんど誰でもできる行為によって生きている人々を不安・恐れから救済し,念仏以外の善行も助業として肯定した浄土宗・法然上人の教えのほうが,生きている人間,浄土宗につながる以前も信仰があって善行を積んできた人間にとっては有り難いのかもしれない。これが法然上人の愛し方だったのだと思う。

自分が全知全能でないことを思い知り,自分の能力の限界を超えることに対してうまく付き合い,自分ができる的確な実践を行い続けて生きることが,信仰の本質だと思う。だから,「何を信仰するか」は,信仰の本質ではないと思う。何が信仰対象であるかはあまり重要ではない。

したがって,神の姿について人間類似のイメージを与える宗教は多いが,そのようなイメージではなくずっと抽象的に,全宇宙を信仰対象としても立派な信仰たりうる。重要なのは,信仰対象が,人間を超越した能力をもつ存在であることである。

そもそも,ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も,それぞれがもつ神は世界共通で一神教であるわけだが,これらがもつ神はもともときわめて抽象的な存在である。同じ旧約聖書を聖典とする「経典の民」たちは,十戒にあるように本来は偶像崇拝をしてはならなかった。偶像崇拝をすると,信仰の本来のありかたを見失うリスクが高まってしまうからだと思う。しかし,キリスト教においては,イエス・キリストを神として扱い,またさらに敷衍して他の人物や物も特別に扱うことも多い。対してイスラム教では,偶像崇拝どころか,神を絵に描くこともありえない。

その観点でいくと,ギリシャ・ローマ神話や,日本の神道や,ヒンズー教は,多神教であってそうとうにカジュアルなところがある。が,これらの発想はおそらく,誰か・何かを特別に扱う宗教ではなくて,神はどこにでも偏在する的な発想の宗教なのだろう。人間は,その知覚・認識において区別することを行うから,その性質にのっとって,区別した各個体に神の性質を与えたのが多神教であると思われる。他方,一神教は,人間の知覚・認識を超越した概念に神をみる。

いずれにせよ,人間は全知全能ではなく,したがって人間各人がもつ価値観や規範は絶対的なものではない。信仰は人間が生きるために必要だとしても,自分の都合に合わせてエゴイスティックに宗教を利用したり,さらには,人を殺したり自分の命を粗末にするために宗教が用いられるようになっては,全くの本末転倒である。人間は全知全能ではなく弱いがゆえにこのような行為に陥ることもあるだろうが,やはりそれを踏み越えたところに本当の信仰があるのだと思う。宗教を理由にした争いは絶えないが,それを見ているとどうしても「愚かだなあ」という印象を私は禁じ得ない。

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