たにぐち放浪記R

ひとりの人間が,生活と人生についてつれづれと書き連ねる日記。

Rは,Revenge のRではありません。 Restart かもしれないし, Reconstruction かもしれないし, Reinstall かもしれません。そんな意味でのRです。プロバイダの事情により昔のデータが飛びました。昔のデータはGoogleY!InternetArchiveに訊いてみてください。ご不便をおかけし申し訳ありませんが,よろしくお願いいたします。

livedoorニュースでときどきコメントを書くこともあります http://news.livedoor.com/comment/user/p-6773179/ [RSS]。それと,PJでたまに書いています。

過去の日記

2009-06-10 (Wed) まあ当然このブログの設定も再設定するんだよな(自分

_ [告知・連絡] ブログを復活させます (I WILL restart this diary.)

しばらくというより何か月も更新していなくてすみませんでした。

この数か月,いろいろなことがありすぎました。

リハビリがてら更新を再開しますので,今後ともよろしくお願いいたします。

_ [プロの仕事ということ] 働くということ

難しく考えずに単純化すれば, give and take ということだ。

社会人としてプロとして働くということは,ちゃんと価値を提供して対価をもらうということだ。対価をいただける相手はどんな人間であれお客様であることには違いない。

それをずーっと敷衍する,つまり広げると,いわゆる「ファン」は「顧客」の一部分であるが,それだけではなく,「取引先」や「仕事仲間」であれ,「上司」であれ「従業員」であれ「株主」であれ,動くのがお金かそうでないかというのは関係なくすれば,なんらかの取引関係があるわけであって,広い意味で「お客様」であり,そしてその集合体が社会,すなわち人の集まりである。

ただ,それぞれの属性に応じて,「やるべきであること」と「やるべきでないこと」があるわけであって,顧客に甘えるのは,相手がたとえ自分のファンであったとしても,本質的にはプロとして社会人として軸がぶれている。

日常的に対価をもらわず(つまりは「業務」としないという意味でありますが),かつ,プロを自称しないのであれば,それぞれの属性を厳格に切り分けずにいっしょくたにしても許されるでしょう。

しかし,プロであるのであれば,まず第一にその属性を切り分けて,自分の分をわきまえて行動することが求められます。

とはいえ,これが簡単にできることではないこともまた承知しています。プロでも同時にひとりの人間ですし,また,同時に複数の属性をもっている人間というのもまたいるものです。

かのライブドアの元社長が,顧客=株主としようとするいわゆる「インベスタマー」(あるいは「インベストマー」)戦略を打ち出したことがありましたが,別にライブドアでなくとも,上場会社で一般の個人や法人を顧客としている会社であれば,顧客が株主になってもなにもおかしなことはないわけですし,むしろ,顧客が株主になってくれたり,株主が顧客になってくれたりすることは,とても有り難いことです。

それをさらに広げれば,「仕事」と「プライベート」を切り分けること,「プロ」と「私個人」を切り分けることも容易ではないのかもしれません。「仕事と私とどっちが大事なの?!」なんて問いもそうですが,まあ往々にしてクロスオーバーすることもあります。

ですが,だからこそそれを意識して分別する必要があるとも思います。

誰とも言いません。もしかすると経験がある方もたくさんおられるかもしれません。いままで学生仲間でコミュニティがあったけど卒業したら集まる機会がなくなる。だからその代替物として,限られた顧客(ファン)との間でコミュニティをつくる。学生起業家だったらこんなことあるかもしれない。

それって,仕事なの? プライベートなの? たぶんプライベートでしょう。

勤め人だともしかするとそういう問題にぶちあたってしまうことはないかもしれない。放置されたままですむかもしれない。職場の上司や先輩や後輩や,すなわち仲間との付き合いでは,日本ではよく「無礼講」なんて言葉を使ったりもしますが,しかし仕事とプライベートを意識しないで付き合っている職場も少なくないでしょう。職場のみんなが飲み会に誘われたけど,都合が悪くて行けない仲間がいたなんてのはよくあることですが,その飲み会は仕事かプライベートかよくわからない。仕事仲間で気に入った奴同士で飲みに行く,それはたぶんプライベートかも。

…私の職場だと,比較的意識して,仕事とプライベートを分離している傾向がありますけれど。それは職場それぞれですね。

自営業,自由業だったらもっとややこしいですね。顧客・取引先との付き合いが仕事かプライベートか分からなくなったり。あるでしょうね。

ただたぶん,一般の個人や法人を広く顧客・取引先にもつ事業主や企業となると,付き合う相手を選り好みしない,すべきではないと自覚している事業者が多いだろうし,それが根底にはたぶんあって,正しいと思います。

一般のコンビニチェーンや外食店チェーンに行ったら,お客さんによって態度がころころ変わったらたまりません。えーと,「笑っていいとも」で森公美子さんも言ってました(笑)。

たとえば,Amazonみたいに,顧客の傾向に合わせておすすめを変えることはあるでしょうが,そのやり方はすべての顧客に対して行われているサービスですよね。

街の場末の酒場が常連さんばかり優遇していることは許されても,一般の外食チェーンに行ったら常連さんばかり優遇されているなんて話は聞きません。

結局長々と書きましたが,特定の常連さんに甘えるにしても,特定の常連さんを優遇するにしても,れっきとしたプロであるためには,本来それはプロとして軸がぶれているということになると思います。

航空会社やホテルだったら,常連さん優遇のサービスがありますが,それは公にされていて,誰でも常連さんになれて,だれでも受けられるサービスであるのがふつうです。同じだけ対価を払って同じ常連であるのに,この人は好きだから優遇して,この人は嫌いだから適当にあしらうということをやることは,プライベートとしては許されても,プロとしてはおかしなことです。たかがこんな私だって,金を払って常連になれば,航空会社でプレミアムクラスに座れて,弁当と酒が付いてきて,CAから「ご搭乗ありがとうございます」なんて面と向かって直接言われる。実にそんな経験もあります。

かりに,場末の酒場が大規模居酒屋チェーンになりたければ,あるいは一ラーメン屋が上場ラーメンチェーン企業になりたければ(日高屋とかですかね),あるいは,街の一介の電器屋が大規模家電量販チェーンになりたければ(ヤマダだってコジマだってケーズだってそうですよね),プロの仕事とそうでないこととをわきまえられなければなりません。大きくなるためには通常通る道のりだと思います。

でも,プロを自称していて,ビッグになる気でいるのに,そんなことができていない事業者もわんさかいるのでしょうね。で。最終的には,それができるようになって大きくなるのか,できないまま小さいままなのか,あるいはどっかでつまずくのか。

仕事の話でありながら,経営の話にもなってしまいましたが,書いてみました。長文容赦。

_ [告知・連絡] カウンターが…

もちろん検索botのせいもあるでしょうけど,よく見たらすでに約1800もまわっているのですね。

更新をしていなかった何か月かの間に。

ご覧になっていた方,放置状態でごめんなさい。

これからは無理せずなるだけがんばって書きます。

_ [この社会と世界のこと] ヘビースモーカーということ

今日は時間をつくったのでたくさん書きます。暇ならおつきあいください。

さて,わざとソフトなタイトルを付けてみました。私はタバコは吸いませんが,おそらく「ヘビースモーカー」という前置きから始めたほうが,多くの方に受け入れられやすいのではないかな? と思ったからです。

「ヘビースモーカー」という言葉を冒頭に据えましたが,要はタバコの吸いすぎで身体や社会生活に悪影響がある,しかし自分ではやめられない人のことを指してここでは定義しておきます。

たぶん,世の中にはヘビースモーカーはたくさんいるでしょう。そして,周りから言われて禁煙を考える人,自分自身のことを考えて禁煙を思い立つ人,いると思います。タバコが好きなだけだと言って,あるいはタバコで身体を壊して死ねれば本望だなどという人もいるでしょうね。

ところで医学的には,麻薬もタバコも薬物にカテゴライズされます。そして,ここで定義した「ヘビースモーカー」というのは,「ニコチン依存症」ということを指すわけです。と言うと,猛烈に否定される喫煙者も,あっさり肯定しつつも「だから何だ?」という喫煙者も当然におられると思うのですが。

ただ,身体的に,あるいは社会生活に悪影響があるのに禁煙できないというのは,本来はその当人にとって良くないことのはずです。ひどい場合は,身体依存状態,すなわち,タバコを切らすと禁断症状がでることもあるわけです。そこまでいくと自分ではますますやめられなくなります。

ところが,おそらく間違いないと思いますが,禁煙を思い立っても実際には失敗するヘビースモーカーの方が多いのではないでしょうか。

第一に,自分では依存を認識していない場合は,やめられるわけがありません。タバコをやめられない自分に気付いていないからです。そして,また吸ってしまいます。タバコが好きなだけだと思っていたら,また吸いますよ。ですからまず,自分がタバコに依存していることに気付かないといけないわけです。

第二に,自力ではタバコをやめられないということを受け入れる必要があります。そこで,禁煙を周囲に宣言するなり,禁煙を達成しようとする仲間をつくるなりすることが効果的なわけです。たとえば,周囲が止めてくれますから。

テレビCMでもやっていますが,まず医師に相談するというのは入口としては良い方法です。タバコが薬物であるということ,それに(精神的または身体的に)依存していること,したがって自力ではやめられないこと,そのせいで身体や生活に悪影響を及ぼしているということ,それはすなわち実は,薬物依存症という病気なのですから。

ということで,入りやすい具体例をわざと冒頭にあげてみましたが,何が言いたかったのかって,薬物依存症という話です。

少なくとも日本だったら,麻薬を例にあげれば,ほぼ誰でも薬物だというでしょう。では,タバコは? 酒は? 医学的見地で言うと薬物です。ニコチン依存症もアルコール依存症も薬物依存症です。で,病気です。

なのに,病気なのに偏見で見ている人がとても多いですよね。残念なことだと思います。とりわけ,タバコや酒については,日本では寛容です。そして,寛容であるばかりに依存症に陥ってしまう人がたくさんいます。

そういった依存症患者は,はたしてその当人が悪いのでしょうか。ニコチンもアルコールも薬物なわけです。ところが社会的にはちゃんと認識されていなくて,それを摂取してしまうわけです。勝手に薬物を注射されたせいで中毒に陥った患者とそんなに違うのでしょうか?

つまり言いたかったのは,ニコチン依存症もアルコール依存症も病気だぞということ,患者自身だけが悪いとは限らないしむしろその逆のほうが多いぞ(たとえば,親がスモーカーだったら子どもも自然にスモーカーになるでしょうね。そこから依存症になっても何もおかしくはないのですよね)ということなのです。(※もしあなた自身やあなたの身の回りにこのような依存症じゃないかという危なげな方がいらっしゃったら,当の本人はいやがることもあるかもしれませんが,手助けしてあげてほしいと,私は思います。)

今後はさらに突き詰めて,この社会や世界の様々な面についてやあるいはその本質について書いていきたいと思っています。なおあらかじめ言っておきますが,変な宗教ではありません(笑)。ある意味啓発的ですが,どっかのおかしななんとかセミナーとかでもありませんので,ねんのため。ちゃんとした哲学的な医学的な物理学的な,あるいはそれらみなひっくるめて科学的な見地で書いていこうと思っています。

そこでは,もしかすると「たぶん知らなくても普通に生きていけるのに,なんでそんな話を聞かされてしまわされたのだ!」とときに不快に思われることもあるかもしれません(さきに薬物依存症という話をしたのもあるいはそうかもしれませんね)。ただ,少なくともそういうことを知らないとできない仕事(ときに医師,ときに法律家,ときに警察官,ときに葬儀屋かもしれません)があるのは事実ですし,知っていれば,他人を見るときには全く違った見方ができるようになるかもしれません。そうしたら,結果的にあなたの生活とこの社会がより幸福で充実したものになったらいいなと,私は思っています。

簡単なたとえで言いましょうか。戦争を語ることや環境問題を語ること,飢餓を語ることとか。それと方向性は同じです。

その時々に気が向いたときにつれづれと書いていくつもりですが,読んでいただければありがたく思います。

_ [告知・連絡]この日記が読める別の場所

ご連絡。とりあえず,ミクシィ内の私の日記には,しっかりした読み物については,同じものを載せていく方針でいます。あと,グリーとFC2Networkでは,自動的に同じものが配信されるように設定しておいています。

ほかのSNSについては…いま考え中です。自動で更新してくれるSNSについては基本的にカーボンコピーな方向で。手動だと大変なので,MySpaceとかはちょい考えてます。

_ [この社会と世界のこと] 戦争(戦闘)ということ

さきほど,具体例として戦争について語るということをたとえで挙げてみましたが,とても重要なトピックですね。

厳密に「戦争」というのを定義すると,国家間の戦闘行為であって,宣戦布告が行われ云々とかいうのが出てくるのでしょうが,難しい定義を抜きにすれば要は人間と人間の殺し合いですよね(非常に衝撃的な表現ですが)。そういった戦闘行為であれば,現在も地球上のあちこちで行われているのは事実であって,幸いにして私は戦闘行為に巻き込まれたことがないだけです。

さて,そもそも,かつてNHK(!)のテレビ番組で,主に若者を対象として,「なぜ人を殺すことはいけないのか」というテーマの番組が放送されたことがありますね(たとえば「ETV2000 ダライ・ラマ 〜日本人への問いかけ〜 第1回 なぜ人を殺してはいけないか」)。元来,我々日本人が生活している日常の中では「当たり前じゃないか」と思われていたことですね。あるいは,「犯罪だからいけない」と教える親もいるでしょう(それは「法律を守らねばならない」という隠れた前提のもとでは大正解です)。

ただしかし,この命題への私なりの解は,

  1. かりに人を殺してもよいと仮定する。
  2. 誰かが他人を恨んだり憎んだりしたときには,その人を殺す。
  3. 殺された人の身内や仲間が,殺した人を殺す。
  4. 殺し合いが起こる。
  5. 自分自身が平穏に生きられない。
  6. 私は,そんな人生・生活はイヤだ。

となります。そして,ここにも実は隠れた前提があって,「自分は平穏でしあわせな暮らしがしたい」という自己愛が前提です。だから,自分を愛せない人間は他人も愛せないし,他人を殺すことへの歯止めが不十分です(このことは,現実の殺人事件における容疑者ないし犯人を見ていても分かりますよね)。

いわゆる紛争地域における戦闘は典型ですが,「殺されたから殺す」わけです。そこには恨みや憎しみや,そして相手への不信があります。紛争地域で武装解除の仕事をしている日本人もいるそうですが,やはり,相手への不信を解くこと,そもそもそれには武装解除を要請する自分自身を信頼してもらうことが必要です。信頼を構築するというのは大変ですね。いや,一般論としても,人間関係の「信頼は構築するのは困難だが,崩れるときはいとも簡単だ」というのもまた真理だと思いますが,これは余談としても。

「人を殺してはいけない」という規範ができたのは,宗教をたどればずいぶんと昔のことでしょう。

しかし,国家間の戦争が国際法上違法化されたのは,第一次世界大戦をきっかけとしており,そのWWWIの戦後に不戦条約が結ばれた時だということは,世界史を勉強された方なら間違いなくご存知だと思います。(残念ながら,その国際協調は世界恐慌をきっかけとして崩壊し,帝国主義の強化や全体主義の台頭により,「正義」をかけて争う第二次世界大戦が始まるのですね。WWWIIまでは,WWWI自体がバルカン半島の国際関係の不安定な状態を原因とし,暗殺事件という偶然をきっかけに起こったものであって,「戦争は話し合いで解決できる!」とみんな実にシンプルに信じていたのです。それで国際連盟ができますが,そのULはあっさりと機能不全に陥るのですね。余談が過ぎました。)

日本史において殺しあいが違法化されたのはいつごろなのでしょうか。おそらく江戸時代初期までは仇討ちが合法化されていましたから,その頃までは「人を殺してはいけない」は必ずしも絶対的な自明の理ではなかったのですね。それどころか,「切り捨て御免」ってのがあったわけです。明治維新後には明確に「決闘罪」なんてものまでできるわけですが。

意外に「人を殺してはいけない」が日本で当たり前になったのは最近なのかもしれません。他方,世界を見れば未だに殺し合いが行われており。

さらに厳密に言えば,国家の「自衛権」を支持するのは国際的に多数で,日本でも有力です。私が思うに日本国憲法9条は究極的には国家的個別自衛権すら否定しているのではないかと,前文も合わせて読み込めば解釈することができると,個人的には考えています(ただ,この憲法ができたのは比較的平穏で,実に楽天的に国際的な物事が考えられていた一時期のことですが)。

日本の刑法においても,正当防衛は認められており,ざっくりと言えば,自分が本当に殺されそうになったら,犯人を殺しても仕方がないという趣旨が定められているわけですね。ですから,日本においてすら「人を殺してはいけない」は絶対的な規範ではないと言わざるをえません。

宗教においては別です。私は宗教家ではありませんが知識として言うなら,キリスト教なら,片方の頬を叩かれたらもう片方を差し出せなんて話もあるわけで,そうなってくると自衛権・正当防衛自体否定してますね。理想論から言えば,人間がみんなそういう人間だったら殺人事件はないかもしれません。

ただ,他方,感情は人間の本能の中に遺伝子的にまでもプログラムされているものであり,恨みや憎しみや,あるいは殺意までもが,人間の中に内包されていることも否定できません。おそらく,聖人君子とまで言われるような人や,あるいは聖職者であっても,というか,そういう人であればなおさら,自らの本能や欲求に対してどう取り組めばよいのか,それはもしかすると死ぬまでずっと命題であり続けていることでしょうね。

しかしたぶん,人間の感情そのものを否定すればそれはもはや人間的ではあり得ないわけで,おそらく,人間の感情の中から,いわゆる正の感情とたとえることのできる,たとえば優しさとかうれしさとか愛情とか…それだけを残して,いわゆる負の感情を取り去ることもまたできない。いやそれどころか,正の感情と負の感情はときに表裏一体ですらあって,愛する人を殺された人がその殺人犯を憎しみ続けるのは,その人にいわば正の感情である愛情があるからこそです。具体例を挙げる必要もないかもしれませんが,光市母子殺人事件だって,妻子を殺された夫が,容疑者・被告人を恨み続けているわけです。

ですからおそらく,人間のなかにあるそういったいろいろな感情が,現に存在していることを認めて受け入れること,そしてその自分の感情とどう付き合っていくか,それが結局のところでは究極的な生き方であって,まっとうな宗教家・聖職者だってそうやって生きているのかもしれません。

たとえば(仮定の話ですが,もしかするとこれをご覧の中には一人くらいはいらっしゃってもおかしくはないのかもしれません。)愛する人を殺されたとき,自分はどうするのか? それはとても難しい問題です。

これもまた私自身が信仰しているわけでもありませんが,浄土宗の開祖である法然上人は,幼少の頃に親を殺されるのです。しかし,その遺言で仇討ちはするなと,遺されていたのです。そして仏道の道に入り,そして浄土宗を開くわけです。

当然ながらなにも,「愛する人が殺されたら仏道に入れ」と言いたいわけではありません。ただ,そういうきわめて大きな,人生を揺るがしかねない事件が起こった後,自分の人生をどう再スタートしていくかということは,単純ではなくてとても難しい問題です。そして現に,この地球上には,そういう課題に直面した人間が未だにたくさんいて,その中にはテロリストの一人になる人だっているわけです。

「これは新しい戦争だ」とテロリストとの戦いを宣言したアメリカのブッシュ元大統領。しかし,この地球上には,殺された人の肉親が現に生きており,また,飢餓や貧困に苦しんでいる人もいるなかで,ただ単に自衛権の行使でしらみつぶしにするだけでは解決するわけがないのです。

ものすごく大きな問題になってしまいました。というか,そもそも最初から大きな問題を掲げてしまいましたね。

これを読んでいらっしゃるあなたや,これを書いている私が,個人として何ができるのか? そう問われたとしても,簡単な答えなんてない。

ただたぶん,人間の中にある感情,自分の中にある感情,世界で殺し合いが未だに続いている事実,それをまず受け入れて,そして自分なりにどうやって向き合っていくか,考えて実践するしかありません。実践できることはちっぽけかもしれませんが。

テレビなどで「誰かを殺したいと思ったことがあるか?」というアンケートを採ってみたりすることがあります,そして思いのほか「はい」が多いものです。でも,「はい」と答えた人の中で実際に殺したことがある人なんて日本ならたぶん1%もいないはずです。

そういった自分の感情と向き合うことは大変ですが,生きていく中でどうしても必要になります。誰も恨んだり憎んだりせずに生涯を過ごせればなんと安楽なことでしょうか。そんな生涯を過ごせる人は,ほとんどいません。

いわゆる負の感情が自分の中にあること自体を否定したくなる方は多いでしょう。もしかすると大多数かもしれません。

ただ,自分のことに素直に向き合って受け入れて,そしてうまく付き合って大問題は起こさないようにしつつ生きていった方が,それは大変かもしれませんが,豊かでしあわせに生きられるのではないか,たぶん,と私は考えています。

平和も最初はそこから始まるかもしれませんね。だって,いまだって,この地球上で,愛する人が殺された人が存在しているのですから。愛する人が殺される目に遭うか遭わないか,それも偶然に左右されていることです。もし日本ではなくて,紛争地域に生まれていたら,たぶんあなただって,少なくとも私はどうなっていたか分かりません。ひと一人の力がちっぽけでも,同時に鍵を握っているのは一人一人なんだと思います。

ということで,一応このトピックは閉じますが,この流れで行くと次のトピックは,自分の感情をどう受け入れてどう向き合って付き合っていくかという方向になりそうですね。これまた難しいトピックなのですが。

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