たにぐち放浪記R

ひとりの人間が,生活と人生についてつれづれと書き連ねる日記。

Rは,Revenge のRではありません。 Restart かもしれないし, Reconstruction かもしれないし, Reinstall かもしれません。そんな意味でのRです。プロバイダの事情により昔のデータが飛びました。昔のデータはGoogleY!InternetArchiveに訊いてみてください。ご不便をおかけし申し訳ありませんが,よろしくお願いいたします。

twitter では http://twitter.com/htaniguchi [RSS]で,Timelogでは http://hitta.timelog.jp/ [RSS]で書いてます。
livedoorニュースでときどきコメントを書くこともあります http://news.livedoor.com/comment/user/p-6773179/ [RSS]。それと,PJでたまに書いています。

過去の日記

2009-11-24 (Tue)

_ [法律] わいせつ物とわいせつ画像

「[児童ポルノ・児童買春]自宅のパソコンのファイルサーバ一等に蔵置させたわいせつ図画である児童ポルノの画像ファイルをインターネットを通じて有償販売して提供するとともに同目的の下,前記ファイルサーバー等を所持した事案につき,刑法175条後段のわいせつ物販売目的所持」『奥村徹弁護士の見解』

判例理論からいくと,わいせつ物は記憶媒体であって,データ自体はわいせつ物ではありません。

これはたとえば,わいせつ写真集は,本自体がわいせつ物であって,掲載されているイメージ自体は有体物ではないからわいせつ物ではないという関係とパラレルです。

その観点でいくと,わいせつデータをダウンロードさせる行為は,わいせつ物(記憶媒体)を(電磁的な方法で)見せ,わいせつイメージをコピーさせる行為です。したがって,わいせつデータを不特定多数にダウンロードさせる行為は公然陳列罪です。

まあ,問題の本質は,そもそもわいせつというのは,物がわいせつなのではなくて,物にわいせつ属性が載っているということ。電子データでやりとりできる時代になって,わいせつ属性だけ切り離して流通させることが容易になったために表面化したということです。

これは,音楽流通について,メディアに化体して販売する形態に対して,最近はオンライン有料配信が普及してきたこととも同じですね。

法のありかた自体の問題に関わることであり,そこまでくればもはや立法論なわけです。


2009-10-29 (Thu)

_ [法律]大阪高裁がURL掲載を現物掲載と同視している件 (判決結論部分-奥村弁護士転載)

他人がウェブページに掲載した児童ポルノヘのハイパーリンクを他のウェブページに設定する行為は,その行為又はそれに付随する行為が当該ウェブページの閲覧者に対し当該児童ポルノの閲覧を積極的に誘引するものである場合には,児童ポルノ公然陳列に該当する。

普通に考えると。共同正犯が成立する事例なら共同正犯で,そうでないなら幇助犯を検討すると思う。

たとえば,著作権侵害が争われる事例では基本的に,IMGタグで自分のウェブサイトに表示させるのと,Aタグでリンクを張るのとでは区別しているはずである。

リンク張っただけで張った人間が陳列の正犯になるというのは強引にすぎると思う。


2009-10-08 (Thu)

_ [宗教][この社会と世界のこと][人生] プロフェッションとしての聖職者と宗教のありかたについて

プロフェッションというと,弁護士(法律家),医師,聖職者(宗教家)が一般的にあげられるわけです。このなかで,弁護士は社会生活における問題に対応するプロフェッションで,医師は肉体の問題に対応するプロフェッションです。そして,聖職者は,心の問題に対応するプロフェッションだと思います。いわば,弁護士は頭脳のプロフェッション,医師は身体のプロフェション,聖職者は心(感情)のプロフェッションといえると思います。

宗教(信仰)はほんらい,人間が生きている間において,身体(肉体)や頭(理性)だけでは解決できない,人間の心(感情・情操)の部分について対応するものだと考えられます。どんなに科学技術が発達しても,どんなに人間の頭が良くても,生きていく中ではそれでは解決できない苦しみや不安などがあるはずです。そんな人生において,心の平安や希望を得るためにあるのが宗教だと思うのです。

たとえば,仏教では,この世を生きていくのに苦しみが満ちていると考えます。それは事実だと思います。上座部仏教のような修行(苦行)を中心にする宗派は,自らの体や心を鍛えて解決しようとするわけです。他方,浄土信仰のような大乗仏教は,念仏や題目,座禅といった,違うアプローチで心の平安を得ようとするわけです。

キリスト教でいえば,懺悔や祈りも通ずるところがあると思います。

ところが,少なくとも現代の日本社会において,心の問題,情操の問題についてはおろそかにされがちでした。

たとえば,仏教の実情については,「葬式仏教」と揶揄されたりしているわけです。しかし,ほんらい宗教は生きるためにあるはずで,葬儀という儀式も,死という別れにおいて,故人との間でけじめをつけ,遺された人間が心穏やかに希望をもって生きるためのものだと思うのです。宗教は生きるためにあるのだと思います。

現代の日本社会を見ていると,日本人は,そういった宗教の本質を見過ごして宗教をおろそかにして,結局,自らを心に余裕のない苦しい状態に追い込んでいるように思います。日本人には,心に平安と希望を,余裕をもって,他者に接することがとりわけ重要だと思います。自分に余裕がないと,他者にも落ち着いて接することはできません。そうやってお互いにギスギスした状況をつくってしまうことで,ますます生きづらい社会にしているのではないか。そう思うのです。ささいな勝ち負けにこだわって,より充実した生を送るという最終的な目的を見失っているように思います。

人間の力では,科学技術では,どうにも解決できない問題というのが,今も昔もあるのです。現代においても人間は不死にはなれない。

宗教という言葉がでてくると抵抗がでるのかもしれません。本質は,一人の人間は全知全能ではないという,ごく当たり前のことをコテンパンに思い知って,自分に対しても他人に対しても,あらゆる環境に対してうまくつきあっていくことにあると思います。宗教という言葉を使う必要はなくて,自分より絶対的に強い存在を信仰すること,自我を縮小させることが本質だと思います。

宗教家というと,なんだか現世と隔離された環境で隠遁して修行をするような変なものを想像してしまうかもしれませんが,宗教家(聖職者)が本当にすべき仕事は,人々とふれあって,生きる活力を広めていくことだと思います。生きる活力が,すなわち,心の平安や希望ということであり,その活力を得るための手段が信仰でありその実践である。その方法も広めていく。

だから,一人でこもりっきりで修行をしているような「宗教家」はあやしいと私は思います。

社会がギスギスしているのは宗教家に問題があるのだという人もいます。必ずしも間違っていない。

でも私が重要だと思うのは,私たち一人一人に,よりよく生きていこうとする気があるのか?

医者にもやぶ医者がいるし,弁護士にもいわゆる三百代言みたいなのもいるわけです。人間たくさんいるのだから,なかにはいて当然です。宗教家のなかにもいるはずです。

しかし,どんな名医でも,患者自身に治る気がなければ手の施しようがないのではないか。どんな有能な弁護士でも,依頼人自身に問題を解決しよういう,協力する気がないのであれば,問題を解決することができないはずです。宗教家についてもおなじだと思います。

あたかも,プロフェッションが全知全能であるかのような,全部任せきりにすればよいというような考え方は,おかしい。

一人一人が,人間に対して,他人に対しても自分に対しても,じっくり見つめること。そして,人生を考えることが大切だと思います。そして人間が,人生が集まったものが,社会という存在です。そして,人間はその社会の中で生きています。個人と全体,一人と社会は,双方向につながっている。実は同じなのだということを肝に銘じて生きていくのがよいと思います。

なんか一見偉そうなことを書いていますが,率直に言って,私自身,いま生きていくのにつらさを感じているので,いまこうして書いています。

ついでに,冒頭に弁護士と医師と聖職者を分けて書きましたが,実際にはそれぞれの担当分野は横断していることが往々にしてあります。弁護士のところに来た依頼人が心の問題も抱えていること,医者に身体を治してもらいに来た患者が心の問題を抱えていること,聖職者のもとにやってきた人が社会生活や身体に問題を抱えていることなど,たくさんあります。いずれのプロフェッションも,自分の得意分野だけで問題を解決できないことがあるわけですね。現代では,医師が心の問題を「治そう」という発想がありますが,はたして医師の力だけで心を治すことはできるのでしょうか?? 私は,できないと思っています。


2009-10-06 (Tue)

ブログでもの宣伝しようとしている人。ブログ宣伝する必要があります。マーケティングはそんな楽なものではありません。

_ [役者][人生] 豊崎愛生のブログ記事がいきなり名文だった

あきまつり:『あめとなみだ』

良いことに気がついている。だから,私から付言。

人生はきれいなものばかりではありません。しょっちゅうたいへんなことにもあいます。それも含めて受け止めることでこそ,充実な人生が送れるのかもしれません。

イヤなことに出会っても,その出会いが悪いことではないかもしれない。良いことではあるのかもしれない。良い・悪いは評価の問題だから,イヤなことに出会っても,自分にとって良いことにするかは,自分次第。

イヤな出会いでも自分の糧にできたほうが,自分を成長させることができるし,そして良い出会いに転化するほうが楽な生き方かもしれません。

そうやって,人間はもっともっと大きくなれます。やさしくなれます。愛は一方通行ではなくて往復です。そして往復でひとつです。愛することと愛されることも,生きることと生かされることも,同義です。


2009-09-28 (Mon)

_ [音楽] 9月なので一青窈の「ハナミズキ」について考察してみた

一青窈の「ハナミズキ」という名曲がある。知っている人は多いはずだ。この歌は,9・11の同時多発テロ事件をきっかけに一青窈が作詞した歌である。そしてこの歌は,あまりにも捨象しすぎたために難解な歌詞になっている。感性にあふれる歌であるとともに,非常に知的な(intellectual)歌だと思う。まだ9月なので考察してみた。

ハナミズキ。二子玉川(東京都世田谷区玉川)のドッグウッドプラザが着想だったそうである(dogwood:ハナミズキ)。なお,再開発により,このドッグウッドプラザはなくなってしまったが。ハナミズキの咲く季節は春の4月〜5月。花の色はピンク色。花言葉は「私の想いを受けてください」「返礼」。日本がアメリカに桜の木を贈った際に,お返しとしてハナミズキが贈られたというエピソードがあるそうである。

歌のほうは,葬送曲=レクイエムだと思う。故人の往生を願う祈り。そこにあるのは,故人への感謝の気持ち(花言葉が返礼)。遺された者の生きる決意。

歌詞の考察。

五月はハナミズキの咲く季節。ハナミズキのつぼみは,若くして非業の死を遂げた故人の象徴。「薄紅色の可愛い君」は,ハナミズキのつぼみであり,故人。

「水際」「船」「波」「白い帆」。三途の川を渡る。この世とあの世の境でハナミズキのつぼみをあげて別れる。初七日は,三途の川の波の少ないところを故人が渡れるように願う法要。

暑い夏の惨事。

「ゆきなさい」と送り出す。遺された者の生きる決意。

「果てない夢」が終わる。ふつう「夢」と聞くと良いイメージを想起するが,それが終わるとは。終わる。ひとつは,夢が叶う=終わる。もう一つは,悪夢が終わる。この世の争いが終わる。惨事の悪夢が終わる。胡蝶の夢のごときこの世の生が終わる。迷わず往生してくださいという祈りでもある。

波が止まる。争いが終わる。三途の川の波が止む。

我慢。この世を生きる。争いのこの世を生きる。ハナミズキのつぼみが花開き実を結ぶ=故人が往生したとき。「僕」は生きて,この世の争いをおさめる。

「僕」は誰で「君」は誰か? 「君」は若くして亡くなったひと,「僕」はその父だと,わたしは思う。

ハナミズキのつぼみは,まだ花開いていない。薄紅色は,花の色であると同時に若さのイメージ(たぶん女性だろうか?)。

「僕」はふつうに考えれば男性。

「僕」は,「君」に母の日にミズキの葉を贈ってくれと頼む。母の日は五月(ハナミズキの咲く季節)。ハナミズキは君の象徴であり,五月に花開き実を結ぶ。「母の日に贈ってくれ」と頼むのはふつう,母か,配偶者である父だろう。

作者である一青窈の人柄からいっても,この人は両親(故人)を大切に思っている人なので,そのほうがしっくりくる。

「好きな人」とは誰なのかははっきりと分からない。「君」の恋人か。それとも親や祖父母だろうか? 「百年」という数字の必然性も分からないが,長い時間という意味だろうか。

待たなくてもいい。知らなくてもいい。時が来れば,ハナミズキは花開き,実を結ぶのだから。向こうでゆっくりしていてください。ありがとう。


2009-09-16 (Wed)

_ [プロの仕事ということ] 信頼関係を培おうとすることの重要性

いろいろあってこの頃は医者がトラウマになっていたのだが,今日は歯科医に治療しに行った。以前行っていた病院はもうないようなので,近所の病院に初診で。幸運にも,この歯科医に行って正解。すこしトラウマから回復した?

いまやインフォームドコンセントは当たり前のように言われる時代になっているが,すべての医者がそれを完全に実践しているというわけではないだろう。かつては,偉そうに自分の診療方針も説明せずに治療する医者も少なくなかったと思う。いや,たしかに医者は偉いのかもしれないが,周りから偉いと思われていたからといって,本人が偉そうにするのとは別。偉そうに尊大な態度を取る人間はたいがい大して偉くないものである。

その点,今回行った歯科医はしっかりしていた。

とりわけ歯科医なら技術の高さが期待されるとは思うが,それでもやはり医師の必要条件は人間性だと,私は思う。医師と患者に信頼関係があってこそ,患者は安心して医師に自分のことをまかせられるのである。人間は,自分のセンシティブな問題を,わけのわからない他人に,安易に任せたいとは,絶対に思わないのではないか。考えてみれば,インフォームドコンセントがかつて意識されてこなかったことの方がおかしかったのかもしれない。

医療過誤の問題が取りざたされてずいぶんたつし,医療過誤の疑いから民事訴訟事件になる事例も少なくない。しかし,わざわざ民事訴訟になるべくしてなる事件はそれほど多くはないのではないかと思う。

そもそも,間違いを全くしない人間などこの世にはいないはずだ。医師だって失敗することはある。それに,たまたま運が悪くて成功しなかったという事例もあるはずだ。

それなのに,なぜ患者側が医師や病院を訴えるのか?

医師と患者の間に必要な信頼関係がなく,患者側が心情的に納得できないままエスカレートしたからなのではないか。

今日は,患者との間で積極的に信頼関係を醸成しようとする人間的に優れた医師もたくさんいるのだろうと思えて,すこしほっとした。

信頼関係を培おうとすることの重要性がいえるのは医師だけではなく,およそプロフェッションについていえると思う。プロフェッションの典型は,医師・弁護士・聖職者だが,いずれも信頼関係が重要だと思う。法律家の端くれとして,私も考えるべき点は多いのかなと我が身も振り返って思った。


2009-09-13 (Sun)

大切な人に大事な手紙を書いて送りたいのだが未だに書いている途中…

_ [アニメ][宗教] 「かんなぎ」を観て

「かんなぎ」(全1クール)をいまさらながら見終えた。ヤマカンこと山本寛監督で,シリーズ構成:倉田英之,音楽:神前暁の作品。下野紘,戸松遥,花澤香菜って組み合わせはなんとも「バスカッシュ!」で,ダンとルージュとココを想起せずにはいられないまま見ていたけど。アイドルレッド(笑)。戸松遥は器用。そしてやはり,沢城みゆきがやたら上手い。

シリーズ全体でいうと,起承転結の承の部分で遊びすぎで,まあそれはそれで面白いのだが,転結でシリアスに引きずり込まれるパターン。「キディグレイド」とか「光と水のダフネ」とかと似たようなパターンだろうか。ヤマカンの奇才っぷりと,倉田先生のマニアっぷりにはすっかりまいる。

ヤマカンおなじみのダンスネタ(ハルヒダンスでおなじみ)のOPだけれども,ヤマカンは,ダンスネタをこれで封印したというよりもむしろ,これでダンスシリーズが完成したといったほうがよいかもしれない。

シリーズのプロット的には,起承転結の起の部分で自称神の謎の少女ナギが現れ,結の部分でナギのアイデンティティの問題(ナギ本人も自分が神であることを証明することができない)が出てくるという点で,起と結は対応しているのだが,しかし,主人公の御厨仁の変化の描写とか,ナギのライバルといってもよいざんげちゃんの扱いが中途半端に終わってしまっていて(たとえば,神であるざんげちゃんが生身の少女に憑依して乗っ取っていることについて肯定的にも否定的にも評価されず,かつ憑依されたまま終わっている),「終わった」という終わり方ではなくてなんだか,「現在進行形」のまま終わった感じ。まあ,最後の最後でヒロインのナギのアイデンティティの問題が出てくるのもある意味「いまさら」って印象もないわけではない。1クールでなければ,あるいはシリーズ途中で遊びすぎなければ…という思いもある。

産土神とか神樹とかなんだかんだといって紛らわしくなっているが,ナギやざんげちゃんのような神は,地域共同体に降りかかる災厄や共同体に内包する問題に対して起こるネガティブな感情を受け流すために地域共同体の人々が設定した信仰対象である。ナギは地域の人々の神様であって,川向こうに新たに人の住む地域を開拓するに当たって分祀されたのがざんげちゃんであるわけだ。

たとえば,ナギも祓っている「けがれ」は,人間がもつ恐怖や不安,憎しみなどといったネガティブな感情に起因するものである。「けがれ」の対処法として人々は神様を必要としていた。

ざんげちゃんは,人々からざんげを受け付けることで,人々のネガティブな感情を処理し,それによって自らの存在理由(レゾンデートル)を証明することで存在し続けることができ,アイデンティティが確立されている。

しかし,ナギは,地域共同体の人々からあまり必要とされず(神社が廃止され神木が伐採された),けがれを自ら祓う行動に出たり,ナギ様ファンを集めようとしたりすることで,自らの存在理由を維持し,アイデンティティを確立しようとしていた。

つまり,人間はそこに存在していること自体が自らの存在理由であるが,神という存在は人々に信仰されることにより存在理由がある。ざんげちゃんは人々に必要とされていることでアイデンティティが確立している。それに比べてナギは,自己の存在理由がぜい弱であるがゆえに,アイデンティティクライシスを生じたわけである。

そして,最終話に至っても,ナギは,少なくとも御厨仁から必要とされているがゆえに,存在理由を未だ失っていないと思われるが,それでもナギの存在理由はかなりぜい弱だと思う。 そんなわけで,どうしてもちゃんと「終わった」という印象がない終わり方に感じられる。

ところで,最終話で,昔のナギに会ったことのある人物が亡くなり,幽霊(?)として出てくるが,そのときの「四十九日までゆっくりする」というセリフ。四十九日というのはすなわち満中陰で,死んでから四十九日までの間(中陰)は,死者はこの世とあの世の間にいると,日本の仏教において一般的に考えられている。「四十九日までゆっくりする」というのはつまりそういう意味なのだが,視聴者のどれくらいがこのセリフの意味を理解したかは分からない。七日ごとの法要は,七日ごとに死者があの世に行くまでの関門があるので,その関門を抜けられるように,遺族は法要を行うわけである。

厳密に言えば,中陰の概念が必要であるか否かは,宗派によって異なる。たとえば浄土真宗は,すべての死者は阿弥陀如来の慈悲によって極楽の国の住民になることが約束されているので,究極的には人間は死ぬとすぐに極楽の住民になれるわけであり,中陰の概念も七日ごとの法要も厳密にはその必要がない。

それでも七日ごとの法要がされているわけで,中陰の概念は,宗派の教えとあまり関係なく,習慣として維持されているところがある。どちらかというと中陰の機能は,人が死んだことについて,遺族が心を整理しけじめをつけることにあると思う。

それにしても,神道と仏教の両方が混在しているなんとも日本的な設定のアニメなことだ。神道では,死んだ人を神として祀ることもあるのだが(畏敬の念の表れであり,ときに祟られることを避けるために祀ることもある。靖国神社もその性質の神社)。

宗教には,教義に対する信仰と,組織への帰属という,2つの要素がある。信仰は,人間が全知全能ではなく弱さを内包しているがゆえに,自らの存在意義を裏付けて,どうしても生じてしまう不安や恐れなどのネガティブな感情を解決し,自らの生を実践するためにある。たとえば,人々は,祈願,すなわち神頼みということもやる。この行為は,希望を神様にかなえてもらおうとする形式を取ってはいるが,その実は,希望が叶うか否かというよりも,希望が叶わないかもしれないという不安・恐怖・苦悩が存在することをうまく受け流すためにある。

たとえば,雨乞いとか豊作祈願とかいった神頼みを人々は昔からやってきたわけだが,天候や災害というのは,人間がどうすることもできない事象の典型である。どうすることもできないけれども,何かをしないと不安や恐怖はついて回るわけで,できるならば何かをしたいがゆえに,人間の能力を超越した存在(信仰対象)を設定して,祈るのである。

またたとえば,日本の仏教信仰は,死への恐怖や,死んだらどうなるのか分からないことへの不安を解消する機能をもっている。

作中の「かんなぎ」は「神薙」という地名でも出てくるが,ナギの「なぎ」は,薙ぎ払って平らにする「薙ぎ」というよりもむしろ,「和ぎ」であり「凪ぎ」である。すなわち,平和にする,地を治めるといった意味合いの「なぎ」であると思われる。地域住民の平穏を求める願いによって祀られた神様なのだろう。そもそも大和言葉と漢字は別の言語だったわけだから,漢字は当て字だ。だから,なんとなく地名に「薙」を当ててしまったのが受け継がれたんだろうな。しかしそれにしてもナギ様は傍若無人・自由奔放だけどね(笑)。

EDの「産巣日の時」(むすびのとき)の歌詞にも「和ぎ」という言葉を出しているし。ちなみに「杜」と「森」は同じ「もり」でも,厳密には意味が違う。「杜」は人の住む土地・集落だ。「都の西北早稲田の杜に」(早稲田大学校歌)の「杜」と同じ。さらには,「もり」はもりでも,「守り」も「盛り」も「もり」だからなあ。「神守」も読みを同じくして漢字を変えてしまうと「上森」になってしまう。

私でもそんな考察をしたわけだが,おそらく倉田先生はすごい人だから,深く考察をしたうえでプロットを組み脚本を書いたんだろうなあと想像するなあ。13話で終わらずにもっと本気を出したら,さらにすごい作品になった可能性もあるだろうのになあ。「R.O.D」とか「かみちゅ!」とか書く人だから。とくに「R.O.D」シリーズは,個人的には名作だと思う。

ネット配信ではShowTimeで観られる。もちろん有料だけど。「かんなぎ」 「R.O.D」 「R.O.D -THE TV-」 「かみちゅ!」

_ [この社会と世界のこと][宗教] 信仰の本来のありかた

あの9・11から8年たったわけだが。

宗教には,教義に対する信仰と,組織への帰属という,2つの要素がある。信仰は,人間が全知全能ではなく弱さを内包しているがゆえに,自らの存在意義を裏付けて,どうしても生じてしまう不安や恐れなどのネガティブな感情を解決し,自らの生を実践するためにある。というわけで。

そういう意味では,自らの希望を実現するための,殺人や自爆行為を正当化するような一部の宗教的組織は,人間の生に背いているがゆえに,その存在が背理である。そういったテロ行為に対して,恨む感情のおもむくがままに報復しようとする人々も,本来の信仰を実践することができていない。

構造的暴力に対しては,非暴力的抵抗(ex. ガンジー)によってあらがうのが本来の信仰であろう。また,持てる者は,構造的暴力によって持たざる者がいることについて,なんとかその問題を解決しようと真摯に対処すべきであって,自らと異なる者に対して寛容になり受け入れることが,本来の信仰の実践だと思う。

つまり,いわゆるイスラム原理主義によるテロ行為も,「敬虔な」キリスト教徒ないしユダヤ教徒の「自衛」を大義名分とする報復行為も,信仰を全くもって実践することができていないと思う。

自分の苦しみをなんとか解消しようともがいたり,死の危険に対する恐怖に対処しようとしたり,恨みや憎しみをもつのも,人間であるがゆえであって,人間だからこそ当然にもつ感情・行動なのだけれども。そういった弱さをもつ人間の存在自体が愛しいと思う。ともかく,人間の弱さに対してどのような対処法を見つけ出して実践するかが重要なのであり,その一つの方法が信仰である。

その点では,信仰は,実践も重要な要素であり,また自分が行ってきた善行の努力を正当化し,今後も善行を続けていくという努力を正当化するのも重要な機能である。

そう考えれば,浄土真宗は理論的にはきわめて高度に突き詰められており,悪人正機というのも一面でとても有り難いけれども,究極的には実践すら必要がないということが同時に弱点でもある。かつて一向一揆があり,死ぬことが正当化されていたことがあったのも,浄土真宗に信仰として弱点があるゆえだと思う。

専修念仏というほとんど誰でもできる行為によって生きている人々を不安・恐れから救済し,念仏以外の善行も助業として肯定した浄土宗・法然上人の教えのほうが,生きている人間,浄土宗につながる以前も信仰があって善行を積んできた人間にとっては有り難いのかもしれない。これが法然上人の愛し方だったのだと思う。

自分が全知全能でないことを思い知り,自分の能力の限界を超えることに対してうまく付き合い,自分ができる的確な実践を行い続けて生きることが,信仰の本質だと思う。だから,「何を信仰するか」は,信仰の本質ではないと思う。何が信仰対象であるかはあまり重要ではない。

したがって,神の姿について人間類似のイメージを与える宗教は多いが,そのようなイメージではなくずっと抽象的に,全宇宙を信仰対象としても立派な信仰たりうる。重要なのは,信仰対象が,人間を超越した能力をもつ存在であることである。

そもそも,ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も,それぞれがもつ神は世界共通で一神教であるわけだが,これらがもつ神はもともときわめて抽象的な存在である。同じ旧約聖書を聖典とする「経典の民」たちは,十戒にあるように本来は偶像崇拝をしてはならなかった。偶像崇拝をすると,信仰の本来のありかたを見失うリスクが高まってしまうからだと思う。しかし,キリスト教においては,イエス・キリストを神として扱い,またさらに敷衍して他の人物や物も特別に扱うことも多い。対してイスラム教では,偶像崇拝どころか,神を絵に描くこともありえない。

その観点でいくと,ギリシャ・ローマ神話や,日本の神道や,ヒンズー教は,多神教であってそうとうにカジュアルなところがある。が,これらの発想はおそらく,誰か・何かを特別に扱う宗教ではなくて,神はどこにでも偏在する的な発想の宗教なのだろう。人間は,その知覚・認識において区別することを行うから,その性質にのっとって,区別した各個体に神の性質を与えたのが多神教であると思われる。他方,一神教は,人間の知覚・認識を超越した概念に神をみる。

いずれにせよ,人間は全知全能ではなく,したがって人間各人がもつ価値観や規範は絶対的なものではない。信仰は人間が生きるために必要だとしても,自分の都合に合わせてエゴイスティックに宗教を利用したり,さらには,人を殺したり自分の命を粗末にするために宗教が用いられるようになっては,全くの本末転倒である。人間は全知全能ではなく弱いがゆえにこのような行為に陥ることもあるだろうが,やはりそれを踏み越えたところに本当の信仰があるのだと思う。宗教を理由にした争いは絶えないが,それを見ているとどうしても「愚かだなあ」という印象を私は禁じ得ない。


2009-09-08 (Tue)

最近ずっと体調が悪い。あと何をしようにもできない私がいる。ダラダラでも生きているだけでせいぜいの日々。

_ [ゲーム][音楽][レビュー] 「THE IDOLM@STER DREAM SYMPHONY 00 “HELLO!!”」

最近,戸松分が足りない(って,戸松遥は鉄か何かか?(笑))ので,アイドルマスターDSの「"HELLO!!"」を発売日前日に入手して聴いてしまった。

発売日前日だからか,Amazonにレビューを投下することができないので,フライングでここにレビューしておくと。

戸松遥はあいかわらず器用で,13歳の女の子の役作りで歌っているのに感心する。花澤香菜が元気。

「"HELLO!!"」の歌詞はずいぶんと技巧的で,それはそれでよくできているのだが,やり過ぎじゃないかとも思ってしまう。作曲・編曲は神前暁で。ベースが黒須克彦なんだけど,なんでどこでどう間違ったのか,ベースの音量が大きすぎる&輪郭が少しぼやけ気味な印象がある。ボーカルが埋もれるくらい。普通に考えれば,TDかMixの問題なのかもしれない。もしかすると,安いスピーカーでも圧縮しても出るMixにしたのに対して,私のリスニング環境が良すぎる(高音から重低音でもきっちり再生される)せいからかもしれない。C/Wの「ハッピース」はそんなにひどくないので,エンジニアのせいとも断定できないし。

私としては,C/Wの「ハッピース」のほうが歌詞が良いと思うのだが,歌詞の持ち味が曲にフィットしているかというと微妙かなあ。曲というか,アレンジが優等生すぎるのかな。ボーカルの3人がもっと遊んだらよかったのかな。セリフっぽく歌った方がおいしい部分があるんだけども,普通にうまく歌おうとしすぎたかな。

おまけして☆5つか。


2009-08-29 (Sat)

_ [雑記][プロの仕事ということ] プロデュースっていうやつは

プロデュースっていうのは,プロデュース対象の可能性を現実化し,魅力を引き出すこと。プロデュース対象が主役であって,プロデューサーのほうが目立ってしまったら失敗だと思う。

シンガーソングライターなら,いわゆる等身大の自分を伝えても問題ないだろうし,それはそれで面白いとは思う。

しかしセルフプロデュースならいざ知らず,自分以外のプロデュース対象をプロデュースするというのは,自分を伝える作業とは違う。

一面では,「自分をプロデュースする」が「他者をプロデュースする」に変わるだけかもしれない。しかしまた一面,自分を伝える作業と,自分とは異なるプロデュース対象を作り上げる作業は,ある意味全く正反対の行為とも言える。

自分の外にあるプロデュース対象のために,自分の能力を提供するという行為。それは,自分のエゴを捨て,自分を捧げるという行為。

自分と異なるものを作り上げる作業のために,自分の内なる能力を使うという,ある種二律背反な行為。その行為を実現するためには,現在の自分が自己完結していないことを前提に,想像力(そして創造力)をたくましくし,自分の可能性を完結させずに自分を成長させ続けることが必要。

だから,プロデュースという行為は,エゴを捨て,セルフを声高に主張することを捨てながらも,自分の能力を十分に発揮し,自分を成長させ続けるという,自由がある。

自分の枠というとらわれから自分を解放し,自由自在。変幻自在。それもまた面白いかもしれない。

プロデュース対象が秘めているのに伝えられていない何かを,伝えるために,輝きを引き出すために,自分の能力を差し出す。それがプロのプロデュースというやつかもしれない。

というと難しそうな話に聞こえるかもしれないが,役者の仕事と似たようなところがあるな。


2009-08-19 (Wed) 思いがけずさらに疲れたのでもっと落ち着く時間が必要

_ [雑記][プロの仕事ということ] プロフェッションの必要条件

私の主治医は、主治医において、まだその域に達していないと私は判断し、解任いたしました。

クライアントの主訴を分かろうとしないどころかまともに聴けない,そんな人間はプロフェッションの域に達していない。最初からずれている。

信徒の苦悩や懺悔を聴けない聖職者はいらない。依頼人の相談が聴けない弁護士はいらない。クランケの話を聴けない医師もいらない。それだけのことです。

ひとによって考えや意見や感じ方が違うのは,人それぞれに生きてきた環境も違うし置かれている立場も違うのだから当然のことで,ときには議論することもある。

しかし,それが目的を見失って相手を人格否定してことごとくけなし始めたら,それは同じ方向へ進もうとしているはずのプロと顧客の関係の中ではあるまじき状況である。

たとえば,プロデューサーと,監督以下とで意見が食い違って,監督が「現場ではそれはできません」「視聴者はそれを求めていないと思います」とプロデューサーに陳情しても,プロデューサーが自分の案をごり押ししてきたときは,ある言い方をすれば「妥協」ではあるが,より肯定的な表現をするならば「議論を経て新たな高みに結論を至らせる」ために議論が行われてよい。それで落ち着いて真剣に議論をした結果として出た結論には,仕事を受けた側の人間は「結論に従う」という行動を取るか「降りる」という行動をとるか自分の責任で選択することになると思う。業界の付き合いの関係で,制作会社の判断としてプロデューサーに従うという経営判断(行動)を取ることもあるだろう。スタッフは,その経営判断に従うか,配転を申し出るか,退社するか,行動を選択することになるだろう。

そのようなものだが,冷静な価値判断に見せかけて実のところ自分の感情に支配されているだけの人間が声高に叫ぶような,感情的に荒ぶった後腐れの残るケンカは,私は嫌いだ。

冒頭に戻れば,医師は感情的に腹が立ったから私に怒ったわけで,私は,怒り返すことも嫌いだし,もう会えないくらいにボロボロに人格否定されたし,トラウマをわざとほじくり返すようなことをされて,完全に信頼関係が失われたと思った。だから,あの自称「医師」のほうが変わらなければ,私は彼と会わないでしょう。

_ [雑記][アニメ] 京都アニメーションは角川書店から仕事を受けないほうがよいと思う

京都アニメーションは角川書店から仕事を受けないほうがよいと思う。「らき☆すた」の件では,山本寛監督が作品からはもちろん会社からも降りた。「涼宮ハルヒの憂鬱」の「エンドレスエイト」では地上波テレビ放送でほぼ同じパターンのプロットで8週分の話を作らせて放送した。

もう愛想が尽きてもいいでしょ。京都アニメーションは,角川書店からは新しい仕事を受けない方がよいのではないかと,私は思っている。それで干上がらせるくらい角川書店も重症じゃないでしょ。もう京都アニメーションの制作能力はじゅうぶん評価されているのだから,他からだって仕事を取ってこられるはずだろうと(私は内情は見ていないが)思う。以前からもちゃんと仕事とれていたんだし。

制作会社の直接の顧客は,直接お金を出して仕事をくれる会社だとしても,最終的にお金を出してくれるのは個人顧客(ファン層)なのだから,制作委員会の構成陣がみんなしてファンに「媚びる」くらいでよくて,制作会社が制作委員会の力関係に汲々としているようでは最終的な顧客が求めて期待しているような作品は作れないだろう。ただでさえ,テレビ放送単体では投資を回収することが困難で,関連商品を売ってなんぼの実情なのだから。

京都アニメーションにとって,原点はなんなのか,苦労をしても作品を制作するそのエネルギーはどこから来ているのか,立ち戻ってみてほしい。元請け・ワンストップで高品質な制作ができる余裕と実力があるうちに経営方針をうまくコントロールしないと空中分解すらしかねない気がする。

_ [アニメ] キディ・グレイドシリーズの新作が出るらしい

「キディ・ガーランド」だそうで。キディ・グレイドが,コスプレパンチラアニメ(笑)と見せかけて中盤からメチャメチャ重い展開となる良い意味で超展開アニメだった(似たようなパターンに「光と水のダフネ」)ので,私にとって名作の一つなのですがね。

新作のほうは,「gimik・サテライト・角川書店」制作委員会名は「GTO」だって。…gimik(後藤・きむら・門之園)なのは当然として,サテライトと角川書店ってよりによって…。つか原作がコンプエース連載だからの流れなのね。私としてはありえない…。なんかぶち壊されそうなイヤな予感がするので,その予感が当たらないよう祈っています。ちなみに,「キディ・グレイド」は,Copyright「gimik・GONZO/GOTT」ですからね。ゴンゾだったのに…。まぁ,あの頃のゴンゾだから良かったというのが強くて,いまのゴンゾは微妙で,復活までの手探り感が。上場成功・制作失敗のダメージがでかすぎる。

原作読んでないんだが,GOTT(銀河通商関税機構)じゃなくてGTOなのね。作品中で組織変わったんだろうな。

あとキャスティングが重要。「キディ・グレイド」は新人・若手レベルから中堅レベル取り混ぜたキャスティングが当たっていたので。

しかしやっぱり, gimik えぇなぁ。



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